先日の新聞記事で唐津街道の箱崎宿で
築140年 文化財の町家公開 福岡市の「箱嶋家住宅」 を見て、智善クンを誘い訪ねました。
まず筥崎宮、玉せせりの神社、称名寺、箱嶋家住宅、「利休窯掛の松」の順で歩きました。
木彫亀山上皇御尊像 木造「亀山上皇」御神像(銅像原型)の説明版
2008/04/03付 西日本新聞夕刊に次ぎの記事が
「亀山上皇」原型も福岡に 高さ5メートル、九州国博に保管
3年後筥崎宮で公開 県庁前公園銅像の木彫像
筥崎宮 と その末社「玉取恵比須神社」
玉取祭は、俗に「玉せせり」といい、昔から盛大かつ厳重に行われています。1月3日の午後1時玉洗式で洗い浄められた陰陽の2つの玉は、近くの「玉取恵比須神社」に運ばれます。祭典の後、陽玉は、競り子たちに手渡され、玉せせりが始まります。玉に触れると悪事災難をのがれ、幸運を授かるといわれ、裸の競り子たちは、勢い水を浴び、体から湯気を立て激しい争奪戦を繰り広げながら本宮へ向かいます。やがて楼門下に待つ神職に手渡され、陰陽の2つの玉は再び揃って神前に納まり、祭りが終わります。
金波山西岸院 称名寺[稱名寺]
『筑前國続風土記』によれば、元応2年(1320年)に開基された時宗の寺。開山は乗阿上人。寺の名前の由来は、施主が稱阿、名阿という父子であり、その父子の上の字をとって稱名寺という。
博多大仏
片土居町の称名寺境内には高さ
二丈六尺の「博多大仏」が鎮座して、
一帯は博多の一大名所となった。
片土居町(現上川端町)の「博多大仏」は青銅製の釈迦如来座像で博多の仏師、高田又四郎(1847~1915年)がその原型を制作し、明治45年(1912)に称名寺に建立された。高さ約5・5メートルの堂々とした姿は地元でも親しまれていたが、寺とともに大正9年(1920)に馬出へ移され、戦争激化に伴い、昭和19年(1944)、戦時金属供出のため姿を消した。
今では大仏があったことさえ知る人も少ない。
在りし日の「博多大仏」の貴重な写真が手に入りました。 なぜなら 友人智善クンはこの寺のムスコです。
町家「箱嶋家住宅」
築140年が経つ町家「箱嶋家住宅」 公開記念で宗像市在住の画家二川秀臣さんの版画展「版画で歩く唐津街道」が開かれていました。唐津街道を歩いた時、姪浜宿で個展を拝見し、一度お目に掛かりお話したいとの思いが実現しました。街道の話は尽きません。
赤間宿の勝屋酒造さんと箱嶋家は親戚とのことでした。
(右の写真)は 火やかまどの神様「荒神様」を祭る祭事用の竈で琵琶法師が琵琶を唱えながらお払いをする「荒神払い」が60年ぶりに行われたという。
中庭には水滴が落ちる音を反響させる「水琴窟」などが残り
建物内部には赤色顔料弁柄(べんがら)を使った漆塗りの箱階段
とにかく古い家屋を保存するには建てかえる以上の相当な予算が要ります。
市や県、国の理解なくしては、個人ではなかなか 厳しい感じがしましたが、保存に掛かる費用が少しでも集まるよう願ってます。皆さんおいしいお茶も売ってます。
最後に九州大学医学部の敷地内にある秀吉、利休由来の「利休釜掛の松」を見て帰宅しました。
天正15年(1587)豊臣秀吉は、九州遠征のとき筥崎宮に20日余り滞在しました。 この間、小寺休夢(黒田如水の叔父)らと和歌を詠じ、千利休や神屋宗湛らと茶の湯の会を催しました。
その時、秀吉の命によって利休は、この地の松に鎖をおろし、雲龍の小釜をかけ、白砂の上に散り敷いた松葉をかき集めて湯をわかしたといわれています。
築140年 文化財の町家公開 福岡市の「箱嶋家住宅」 を見て、智善クンを誘い訪ねました。
まず筥崎宮、玉せせりの神社、称名寺、箱嶋家住宅、「利休窯掛の松」の順で歩きました。
木彫亀山上皇御尊像 木造「亀山上皇」御神像(銅像原型)の説明版
2008/04/03付 西日本新聞夕刊に次ぎの記事が
「亀山上皇」原型も福岡に 高さ5メートル、九州国博に保管
3年後筥崎宮で公開 県庁前公園銅像の木彫像
筥崎宮 と その末社「玉取恵比須神社」
玉取祭は、俗に「玉せせり」といい、昔から盛大かつ厳重に行われています。1月3日の午後1時玉洗式で洗い浄められた陰陽の2つの玉は、近くの「玉取恵比須神社」に運ばれます。祭典の後、陽玉は、競り子たちに手渡され、玉せせりが始まります。玉に触れると悪事災難をのがれ、幸運を授かるといわれ、裸の競り子たちは、勢い水を浴び、体から湯気を立て激しい争奪戦を繰り広げながら本宮へ向かいます。やがて楼門下に待つ神職に手渡され、陰陽の2つの玉は再び揃って神前に納まり、祭りが終わります。
金波山西岸院 称名寺[稱名寺]
『筑前國続風土記』によれば、元応2年(1320年)に開基された時宗の寺。開山は乗阿上人。寺の名前の由来は、施主が稱阿、名阿という父子であり、その父子の上の字をとって稱名寺という。
博多大仏
片土居町の称名寺境内には高さ
二丈六尺の「博多大仏」が鎮座して、
一帯は博多の一大名所となった。
片土居町(現上川端町)の「博多大仏」は青銅製の釈迦如来座像で博多の仏師、高田又四郎(1847~1915年)がその原型を制作し、明治45年(1912)に称名寺に建立された。高さ約5・5メートルの堂々とした姿は地元でも親しまれていたが、寺とともに大正9年(1920)に馬出へ移され、戦争激化に伴い、昭和19年(1944)、戦時金属供出のため姿を消した。
今では大仏があったことさえ知る人も少ない。
在りし日の「博多大仏」の貴重な写真が手に入りました。 なぜなら 友人智善クンはこの寺のムスコです。
町家「箱嶋家住宅」
築140年が経つ町家「箱嶋家住宅」 公開記念で宗像市在住の画家二川秀臣さんの版画展「版画で歩く唐津街道」が開かれていました。唐津街道を歩いた時、姪浜宿で個展を拝見し、一度お目に掛かりお話したいとの思いが実現しました。街道の話は尽きません。
赤間宿の勝屋酒造さんと箱嶋家は親戚とのことでした。
(右の写真)は 火やかまどの神様「荒神様」を祭る祭事用の竈で琵琶法師が琵琶を唱えながらお払いをする「荒神払い」が60年ぶりに行われたという。
中庭には水滴が落ちる音を反響させる「水琴窟」などが残り
建物内部には赤色顔料弁柄(べんがら)を使った漆塗りの箱階段
とにかく古い家屋を保存するには建てかえる以上の相当な予算が要ります。
市や県、国の理解なくしては、個人ではなかなか 厳しい感じがしましたが、保存に掛かる費用が少しでも集まるよう願ってます。皆さんおいしいお茶も売ってます。
最後に九州大学医学部の敷地内にある秀吉、利休由来の「利休釜掛の松」を見て帰宅しました。
天正15年(1587)豊臣秀吉は、九州遠征のとき筥崎宮に20日余り滞在しました。 この間、小寺休夢(黒田如水の叔父)らと和歌を詠じ、千利休や神屋宗湛らと茶の湯の会を催しました。
その時、秀吉の命によって利休は、この地の松に鎖をおろし、雲龍の小釜をかけ、白砂の上に散り敷いた松葉をかき集めて湯をわかしたといわれています。
# by karatsu08 | 2012-01-17 20:00 | 唐津街道-その後②